吉野の荷主と和歌山市の仲買商の間に於て設定せられたる仲買の歩引きにして、明治22年に仲買商にたいする従来の歩引制度は不当であるとして、荷主と問屋及び仲買商の間に於て紛争が起きたが此の頃仲買商の勢力は非常に強く結局此の歩引制度は従来通りと決定した。

但し此の歩引は吉野郡中から生産せられる木材にのみに限定せられ、他の材は此の慣習に従はざることにした。

(2)決済方法

問屋は荷主と取引したる注文書(当時仕切券と言う)を取引の翌日又は2~3日以内に仲買人に送附し、仲買人はそれを受取った日より3日以内に問屋へ代金を支払い、問屋は此の代金中より問屋口銭を引去り吉野材木組合事務所へ送附し、組合事務所に於て筏乗下賃、木材流下税等を引去り之を荷主に交附した。

  当時、問屋と仲買との取引は通常現金なるも仲買が小売商人に売渡したる時は60日の延勘定であった。

 以上の決済方法で見る通り問屋は荷主と仲買商の中間的存在であり且つ依託制度であったが故えに何等商略を要する事もなく商行為は比較的容易なるも、これに反し一方仲買商は問屋へは現金払にて支払い、販売は殆んど60日の延勘定なるをもって、従って此の間の多額の自己資金を必要とすると共に一朝機を見ることを誤れば忽ち大損失を招くおそれが多分にあった。

 尚此の当時、有力仲買商と伝えられるものに橘吉右衛門、中谷長蔵、平野林平、楠本仙太郎などがあった。