その根本に杭を 打ち石にて之を詰め、その上に土を置き又水を溜むるため水道ちの水上より3尺余り高き処へ横木を渡しこれを長さ4尺余(巾78寸厚1寸余)の板をおきて10枚計り竪く並べて水を留み而して此の竪板の小口に小さな穴を穿ち藤づるにて輪を着け之に長き藤を通して繋き置き斯くして筏を乗り下ざさんとする時は此の横木を取り放ち溜水の水勢を利用して筏を流す。但し急激なる枝川にはハ子ダマコと称し先床尻の大棕の上に口径3寸、長さ4尺余の木を置きて台をなし之に長さ8尺末口2寸のものとを本2尺目位を此台木に括りつけて基本に●印の●を打ちて止める。
此の鉄砲堰は今より凡そ218年前宝暦年間に始めて吉野郡小川郷の内四郷村大字喜多の池田五良兵衛(家号を呼んで上中屋と言う)と言う者の発想によるものと伝えられている。
斯くして枝川を下ざりたる筏は本流に於てそれぞれ筏に組み替へ此筏に水を注ぎ、これに小砂を塗り棕櫚の毛皮を以て摩擦洗滌しこの筏の表面に木主の名義(書つくる所を鎌にて削ずる)を大書し又先床に送達人及び受取人の住所氏名並に番号等を記し、且つ中次問屋の名を記し極印(木主の名義)を打つ。若し誤りて極印を打ち落したる時は土場又は筏●みのとき之を打つ。然かして此の筏の乗り方は通常の筏にありては人夫二人を要し大木の筏なれば3人若しくは5人を要す。此の筏乗人の内筏の最も先端に居る人夫を鼻コギと称し次なる者を脇乗りと言い、最後端部の人夫を後流しと言う。最も2人乗りの時は脇乗りは後流しをも兼ぬ。