此の堅鋸が吾が国で初めて製作されたのは明治39年で秋田県能代市の秋田木材株式会社である。円鋸は明治30年に三重県伊勢市の菊川鉄工所で製作されたのがその初まりである。それ迄ではヨーロッパ、特に英国から輸入された。 木挽の碑

此の様に国内で製材機が製作されるに至って全国各地に機械挽製材所設置の気運が急速に高まり明治38年には早くも其の数が4百数十工場の多きに達した。これは国産による製材機が自由に買える様になった事も其の大きな要因であるが当時日露戦争による弾薬箱の需要と一般民儒の増加によるものでもあった。

 此の様な事から本市に於ても機械挽製材工場を設置せんとする者が相次いで増加し明治41年には後記のとおり12工場の建設を見るとともに一方先きに設立した小倉勇氏は其後設備を拡張し円鋸1台から3台に堅鋸2台を新設し動力も10馬力から60馬力にと拡大、小倉氏が設備を拡張すると同時に山本源次郎氏も又拡張し円鋸5台と堅鋸3台に動力も15馬力から100馬力にと当時、本市では最大の規模をもつに至った。

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