設立当初本町1丁目にあり、昭和20年6月紀陽銀行に併合す。 此の他十五銀行、柿本銀行、吉野銀行、山口銀行などあるも後年それぞれ合併又は廃業す。
交通機関の発達情況
明治時代に於ける唯一の乗物は人力車であった。 木場に行くにも商用に行くにも人力車が大いに用いられた。此の人力車は東海道風土紀によると〈人力車は800両、行き来の人にも都合良し〉とあるが随分古くから利用せられ又、乗車賃もかなり高かった様である。
本市に人力車がはやり出したのは何時頃からは判明しがたいが、明治5年5月に本県人力車規則が発布せられたとあるからすでに当時相当の台数があったに異いがない。人力車営業規則が発布せられて翌年の5月畑屋敷袋町の秋月熊次郎なる者が始めて乗合馬車営業の許可をうけて旧市内から西和佐八軒家、和歌浦に馬車を走らせ間もなく人力車時代を現出して京橋北詰に内国通運会社、同南詰に自由軒の大帳場が設けられ、通運会社は全盛期には250台の人力車を持っていた。
明治26年の自由軒の賃金表によると人力車の賃金は京橋より山中まで24銭、信達32銭、蛸茶屋42銭、岸和田50銭、堺62銭、大阪・難波・新地迄68銭、高野大和街道の岩出16銭、粉河25銭、名手30銭、妙寺43銭、橋本54銭、九度山50銭、慈尊院47銭、五条72銭、熊野街道の藤代13銭、下津21銭、箕島30銭、宮原40銭、湯浅50銭、金屋58銭、近郷・和歌浦迄は7銭、