然かし其反面製材業者は原木価格の高騰のため左程の利は得られなかった。
米騒動勃発
更らに戦争が長期戦の様相をもたらすに至った大正6年(1917年)には一般諸物価は益々上昇し、翌7年には米価が異様な暴騰となり、遂いに米騒動が起き世相が混乱す。 斯くする中に大正8年第1次世界大戦が終了すると共に、吾が国の経済は急速な発展を見るに至り、黄金の時代が到来、木材業界も又、大いに活況をもたらすに至った。
樺太の虫害材の発生と北洋材の移入
此の頃大戦による船舶の不足から一時減少していた米材が再び輸入が盛んになると同時に一方北洋材は大正8年樺太に於ける虫害材の発生から、大量の北洋材が島外に移出せられ、日本の木材市場は米材と北洋材の洪水と化し、本市にも大量の移入を見るに至り当和歌山市は東京、清水、名古屋、大阪とならび北洋材の5大市場と歌われるに至った。此の頃本市に於ては製函業が漸く盛んになり初めた頃であったが、此の北洋材の入荷を見るや、其の規模を拡大し生産量も又増加す。製函業は愈々活況をもたらすと共に一方米材の入荷により米杉や米松を生産する工場も増加した。又一般製材も大戦後の好況と需要の増大により其の数も漸次増加し、本市は吉野材の集散地から漸く製材工業地帯の色彩を濃くするに至った。
大戦後の好況によって国産材の素材価格は特に上昇した。これは北洋材や米材の用途は限定されていたが、これに比べ国産材の需要は広く、然かも当時の建築物は優良な内地材のみを使用したからである。