(2)昭和前期

金融恐慌

 昭和に入って、先ず吾が国の経済と民心に大きな衝撃をあたえたものは、昭和2年から同4年にかけての金融恐慌であった。其の直接の原因は関東震災による手形の処理と今1つは対米為替相場の急騰に伴う輸出不振と物価の急落等であった。震災手形の未決済の金額は昭和元年(1926)12月末現在、約207,000,000円、関係銀行数は52銀行に上った。これを処理するため政府は昭和2年1月の第52議会に〈震災手形損失補償法案と震災手形前後処理法案〉を提出し審議したるところ、審議の途上で同手形所持銀行についての具体的事実がもれた為に、預金者の不安をあおるに至った。これに端を発して、東京では渡辺、中井、中沢、84銀行等相次いで休業した。続いて台湾銀行と鈴木商店の関係が露呈され、昭和2年4月鈴木商店が整理を発表すると同時に台湾銀行が休業となってついに爆発し、不安は全国をおおい一流銀行にすら取付けに近い騒動を起すに至った。

 政府は急地に陥った台湾銀行救済のため緊急勅令の施行を意図したにもかかわらず枢密院の否決にあい、その目的はついに達せられず、時の若槻内閣はその責を負って総辞職す。若槻内閣の辞職により田中義一新内閣が設立されるに至り〈支払猶予令発布〉をはじめとする応急の措置によって取り付け騒動も1段落を告げ世相も漸く平静をとり戻すに至った。

木材価格の暴落と倒産

当時木材業界は大正15年に改正された営業収益税の負担増しや、激増する輸入木材の関税引上げ問題等で多事多難であったが、昭和4年、田中内閣に変って浜口内閣が誕生し、不況打開対策と