満州事変が長期的な色彩を濃くするに至るや、日本の政治、経済の中心は総て大陸進出に重点が置かれた。

 一方国内では北洋材と米材の輸移入が益々減少するところとなり、港湾都市製材工場の存立が危くされるに至り、ここに於て満州の森林資源の開発が行なわれるに至った。

満州と鴨緑江資源の開発

当時満州にはすでに日本の企業が進出して居り、 製材工場も満州国の重要地域には殆んど日本系の工場が建設されていた。製材機業の満州への進出は国内の製材業を圧迫し木材統制をも早める結果ともなった。従って満州国に於ける当時の製材業の情況の一端を左にのべておく事とす。

  当時満州に於ける製材工場の主なるものに、安東には鴨緑江製材合同株式会社があり、牡丹江には牡丹江製材、チヤムスには鴨花製材所、ハルピンにはハルピン木材株式会社、吉林には吉林製材敦化には大阪の大2商会敦化製材工場、図南には新和木材、新京には秋田商会などがあり満州の重な処には殆んど日本の製材工場が建設されていた。

  ところがこの満州に進出した工場は殆んど失敗に終わった。其の原因は満州国への製材企業の進出は、北洋材、米材の輸移入材の減少による日本に於ける木材の不足を満州材をもって補うべし、との木材業界の与論から出発したものであったが、ここに1つの大きな問題が横たわっていた。それは当時日本の国内製材業者は、製材用丸太の不足から満州資源を開発し丸太の輸入を望んでいたのであったが、満州に進出したこれら製材工場の製品が大量に日本国内に輸入されたため、国内の製材工場の存立が益々危険にさらされ、