ために国内の製材業者は製品輸入に猛反対をした事と、今1つは戦線は満州事変から支那事変へと拡大するにつれて、満州国自体が木材資源を確保しなければならない情態に立ち至り昭和13年6月満州国政府は木材の輸出禁止令を発した為であった。

 当時、満州国は独立国とは言え、日本の軍政下にあり、日本国政府は満州国に統制を強制さしめたものであり、この事がやがて日本国内の木材統制を1歩早める結果ともなった。

戦線の拡大と用材規格の統一

 満州国が木材統制を実施した、昭和13年には戦線はすでに支那全土に拡大、多くの軍用材を必要とするところとなり、木材界は活況を見るに至り価格も上昇した。本市では原木価格は才7銭から8銭と昭和初期の不況期に比較すると約倍額に値上りした。

  戦線が拡大するにつれて、政府は戦争目的遂行のための措置を相次いで行った。木材業にたいしては先ず、昭和14年に森林法の1部を改正し伐採の調整を行ない続いて用材生産統制規則の制定翌15年には木材価格の暴騰を抑制するための公定価格の制定、続いて用材配給統制規則を制定して製材用の丸太の生産者は国の指定する業者以外に売渡す事が出来ない事を定めて、製材工場の原料入手について制限を加え、更にその製材した製品は、同じく国の指定する業者以外には売渡す事を規正した。而してこれらの法令は木材の生産と消費の形態を全く一変さしめた。即ち国は其の年の木材の生産量を策定して之を各府県に生産命令を発し、生産量の割当ての多い県はその割当に基づいて、先ず一般の公用材及び軍用材等を優先的に控除し残りを自県内の需要に割当てると言う方法であった。