以上の様に呼んだので店員は此の符調を覚えるのに大変苦労した。

 尚、筏の編成は、6寸下から7寸上、尺上の3種に編成し、6寸下は一般製材用として、7寸から8寸上の並物は焼板の生地用材に、尺上の上物は建具材に、6寸上以上の並材は、製函用材として多く使用された。

 当時下津港に於ける北洋材の荷役作業は船内荷役は浅川組(当時の代表者浅川清蔵氏、現社長、長井長一氏の叔父)が行ない、船外荷役は太星組、丸吉組、新栄組(現在の新栄組の前身で駿河新太郎氏)3共組等が行ない、同港に於て筏に編成、紀の川本港に曳行するも一部は和歌浦湾を経て内川に曳行さる。

 当時すでに紀三井寺に和歌山木材倉庫の貯木場や小雑賀に三井貯木場などがありこれら貯木場に一旦州?され、同所で取引したあと内川を経て各工場に運ばれるものもあった。

寸検の語源

  寸検の語源は極めて古く、徳川時代紀州藩の御仕入方や、廻船業者が、木材を船積みする場合に船端で材積を検知する者がおり、これを検尺人と呼んだようであるが、その後此の検尺人が素材業者に転向するとともに、自然に寸検という言葉が生まれて来た。

北洋材と下津港

 戦前に於ける北洋材の移入は総べて下津港に於て荷役され和歌山市に廻行された。斯様な意味から下津港は和歌山市並び本県木材業発展の拠点とも称される。此の下津港は其の昔大崎村々領に属し僅か2、300トン級の船舶が避難する1漁港と密柑の積出地に過ぎなかった。