ところが海軍省が、同港を軍港とする意志から、海底の測量を行ない初めたが、当時地方民は軍港とすることを極度に嫌い、測量にあたってはなるべく海底の深きを秘し、常に浅いことを標榜したために、ついに海軍省は軍港とすることを断念したと伝えられている。 其後北洋材移入の●矢、中西進重朗氏が幼少の頃から海に遊ぶことが好きで、海にたいする知識も深く、下津港の有望なるに着眼、自から船に乗り込み水深を測量したる結果、水深の深きを知り、第1回は2,000トン級の船舶を入港さしめることに成功した。この様にして2,000トンの次ぎは3,000トン其の次ぎは5,000トンと次ぎから次ぎへと大型の船舶を入港さしめ、其の都度氏はこれを写真に取り、神戸、小樽等の海運業者に送り下津港は水深が深く大型船舶が容易に入港できることを宣伝した。 こうした結果、各方面より大型船舶が続々と入港するに至り、北洋材の移住はもとより、本邦屈指の石油基地として今日の発展を見るに至った。 此の間、前記中西進重郎氏が同地〈方〉に当時東洋一と言われる竜王木材株式会社を建設し、其の工場用地並び貯木場は現在丸善石油の工場となり東亜燃料の進出と共に、往年の北洋材の移入港下津港一帯は、近年石油の重要基地として又本県唯一の貿易港として、大型船舶がふくそうしている。
(二)米材の初移入
米材が、本市に初めて移入したのは、大正3年で神戸の宮下木材から機帆船で入荷したのが其の初まりで、本船による輸入は戦後である。宮下木材から入荷後大阪の五日会と称す、森平商店、俵松商店、中川商行、楠商店、清水商店等から盛んに入荷を見るに至った。