当時入荷した米材は、米杉、米松の大中角物が主で、此の他米桧の丸太が僅かながら入荷を見ている。これらの米材はいずれも大阪から機帆船で移入され価格は米杉ナンバーワンのクリア(良質材)で1石当たり凡そ10円内外であったが、取引単位は通常25,000BM(約200石)とし、総額約2,000円の大金を要したるために、大阪や神戸の業者と直接取引をする者が皆無であったが、中長商店、(株)川中組製材所や亀嘉商店、その他近林商店などが直接取引を行い一般の業者はこれらの仲買から小口買いをするという状態であった。
米材の入荷とともに、米杉、米松を生産する工場は急増し、一時本市は、北洋材とともに、米材の生産地として大いに活況をもたらした。中でも当時米杉の天井板の需要が盛んであったから、殆んどの業者は米杉の天井板を主に生産した。入荷量の祥細については不明であるが最盛期の昭和初期には年間100,000石から200,000石の入荷を見て居り北洋材の移入の増加とともに一時市内、内川から北島橋下流一帯は米材と北洋材の洪水と化した。
こうした状態が数年続いたために、吉野材や近郊の内地材が圧迫され、ために山持ちは、舶来品が悪い弱いと盛んに宣伝したのも此の頃である。 参考のために吾が国に於ける米材輸入の経過を見ると概要次の通りである。
米材が吾が国に初めて輸入された記録はかなり古くおそらく明治30年前後と言われている。最初の輸入商社は大阪川口(元居留地)に本社をもった範多商会である。当時の輸入量はごく小量で此の時代には米材のことをメリケン松、メリケ杉などと呼んだ。範多商会に続いての輸入商社は、