此の頃からであるが当時電力の供給事情から製材工場の動力数は平均10馬力内外で、多量を用する工場は蒸気力を併用した。 其の後の昭和12年4月、東邦電力株式会社和歌山支店の設置を経て同17年関西配電和歌山支店がこれを経営するところとなり、市内全製材工場の動力は電力となると共に供給量も又増加を見るに至った。
(九)本市製材業発展の特色
<大正―昭和の中期>
本市に機械挽製材所が初めて設立されたのは、明治36年である。 その後世は明治から大正に移り変るとともに、木挽から機械挽製材発達の気運が漸く盛んとなり、中でも北洋材や米材の入荷を見るに至った大正8、9年頃より北洋材や米材を専門に製材する工場が相次いで建設された。此の頃より本市は、吉野材の集散地から製材工業地帯の色彩を濃くするに至った。此の間製材設備も円鋸から竪鋸、帯鋸盤へ動力も水力や蒸気から電力へと変った。 更に大正から昭和期に入り、県内では有田川流域から野上材等が入荷、県外では四国、中国材の移入を見るに至り、最盛期の昭和6、7年以降は年間平均1,500,000石から1,600,000石の大量の入荷を見ると共に製材工場は益々増加、ここに於いて本市は本県屈指の内地材や北洋材の生産地として急速に発展。この様に本市の製材業は大正から昭和の中期にかけて、急速な発展をもたらした要素は、種々あるが、第一立地条件に非常に恵まれていた為である。
先ず製品の販売面から見ると、