東京に次ぎ全国最大の消費量を持つ大阪市に近接し、其の大阪市は大正から昭和の初期にかけて人口の著るしい増加と共に、一方商工業都市として発展の渦中にあり多くの建設資材を必要とした。 鉄筋、鉄骨が現在の様に発達せざる当時木材は唯一つの建設資材で木材の需要は極めて盛んであった。

  此の需要をみたし得る産地は陸送の発達せざる当時、海上輸送による本市以外にはなく従って大阪市の問屋仲買商の殆んどは当市に依存せざるを得なかった為である。和歌山は大阪の製品倉庫であると言われたのも此の頃からである。

  次に原木の供給面では、県下では有田川流域や野上谷並び紀の川流域の森林資源を控え、更に県外では土佐から高知の四国材を筆頭に遠くは中国材の移入を容易ならしめた。 斯くの如く、本市は製材業の発展の最大の要素といはれる製品の販売と原木の入荷、即ち需給面に於ける極めて有利な立地条件を備えていた為である。

  而して此の有利な立地条件にさらに拍車をかけて、益々発展をもたらしたものは市内の内川である。明治から大正にかけて、建設された貯木場の殆んどは、埋め立てられたが、ここの於て自然的貯木場として俄然機能を発揮したのは市内の各内川である。

  有田川流域の県内材を初め、土佐から高知の県外材は和歌山港を経て内川に運ばれ、貯木場として又取引場所として大いに活用されるに至った。然も当初は現今の様な厳びしい使用制限もなく、無償で自由に使用された。又、此の内川は貯木場的な存在価値のみならず一方、