平野林平の三氏等が共同で市内鼠島(現在築港大和町)に約1万坪の要地を購入し、水面貯木場と其の周辺に工場団地の造成を計画、大正8年工事に着工し、翌9年秋完成を見るに至った。 此の貯木場の完成後同地周辺に工場が相次いで建設された。貯木場完成と時を同じくして、樺太より虫害木が大量に入荷を見るに至り、此の虫害木の中には比較的良材が多く、其の上価格も安かったために同地周辺の製材工場は大いに利するところがあった。 此の貯木場は昭和期に入り、埋め立てられ同地一帯の工場要地は現在和歌山港土地株式会社の所有となっている。  

三井物産貯木場

 北洋材と米材の入荷が漸く盛んになった大正10年商社三井物産が市内小雑賀に約3万坪の貯木場を建設す。通称山口貯木場と呼んだのはそれである。此の貯木場は戦後石井堅蔵商店に売却されて現在同店の陸上貯木場となっている。 尚三井物産が本市に初めて出張所を設けたのは、昭和3年で本市に於ける商社の進出は同社が其の初まりである。

和歌山木材倉庫㈱貯木場(通称紀三井寺貯木場)

続いて昭和の初期、中谷長蔵、北村範次両氏の提案により、当時海南黒江町の有志名手吉兵衛と本市の由良染料や今川音蔵氏らの所有にかかる紀三井寺の土地(現在紀三井寺競馬場の北側)を買収して、和歌山木材倉庫㈱(社長、中谷長蔵氏)を設立し、貯木場を建設す。貯木場面積は水面約1万5千坪の他、陸上貯木場を併設し、施設は最も完備した貯木場であった。当時三井貯木場などは、自社材のみを貯木したが、此の貯木場は広く