以て製材業の発展を期するは即ち本県の発展に通ずるものであり、そのためには県営検査の施行は時局柄最も適切なるものとして、昭和8年11月の通常県会に公営検査実施方を提案、満場一致をもって可決。 翌9年度より実施の運びとなった。これより先きの昭和8年8月山林局長より各府県知事宛てに木材検査の実施を早く励行せられるようにとの通達が発せられた。これが本県の公営検査制度をより一層早めたものである。 而して昭和9年3月22日農林大臣より本県の木材検査規則等に関する認可あり、続いて同月29日付を以て県は木材検査に関する諸規程を公布し、3月31日関係職員を任命し、4月15日より愈々実施するに至った。 此の検査制度は戦時色が濃くなるにつれ、一段と強化され日支事変勃発後の昭和14年には国が用材生産規則並びに日本農林規格を制定するにおよび農林省の規定寸法に基ずき出荷品毎に厳重な検査が行れた。 これは当時、支那事変が長期化の傾向にあり、公用材の供出品が多くなったために規格の統一の必要性から強制検査に踏み切ったものである。 検査方法は、製材品を出荷する業者は出荷前に検査申請書に品名、数量寸法等を明記し、手数料を添えて検査事務所に提出し検査員は現場に出張して申請書にもとずき、寸法から等級まで各品目毎に検査し、製品の表面に検査済の丸型のゴム印●を押した。 当時の検査員は30数名にして、検査員の駐在所は北は橋本、高野口から南は新宮まで24ヶ所に設置せられ、出荷量の最も多き本市や新宮市には2名から3名の検査員が常駐し、検査に多忙を極めたが、