昭和18年6月にはついに学徒出陣を決定、多くの学徒は学業を半ばに戦線にかり出された。山本連合艦隊司令長官が戦死したのも此の頃である。同年9月同盟国イタリアが降伏し、更に翌19年6月には、米軍がサイパン島に上陸、同島を基地として日本本土の爆撃が初まった。
此の当時業界に於ては、軍公用材の需要は更に増大したが、労務者の出兵や食糧の不足などのため、搬出や生産が低下する一方であった。
翌昭和20年2月には連合軍はフィリッピンを奪回、日本軍の敗戦色は濃厚となり更に同年6月米軍は吾が本土沖縄に上陸作戦を開始、神風特攻隊の防戦も空しく、壊滅的打撃を受け日本軍の戦力は殆んど消失し本土決戦の戦況をかもすに至り、武器なき一般国民にも竹槍で応戦するよう呼びかけ、世界戦史にも類を見ないまさに悲愴極まる背水の陣を敷いたのである。
米軍の本土攻撃は昭和20年4月頃より連日連夜にわたり、東京、大阪、名古屋の重要都市は勿論のこと、同年7月9日当和歌山市も爆撃され市の殆んどが焼土と化し阿鼻叫喚の巷と化した。この様な状態であったので、地木社も機能をそう失し、生産、配給その他一切の業務が殆んど停止した。
昭和20年8月6日、世界最初の原子爆弾が広島に投下され、次いで9日長崎に投下せられ人類初まって以来の惨事が起った。期を同じくしてソビエト軍は満州に於ける日本軍の背後を攻撃し、ここに於て吾が国は最早降伏のほか取るべき途はなく、遂に昭和20年8月15日の正午、陛下の終戦の放送とともに、日支事変初まって以来凡そ10年の長い才月と幾百万の犠牲者と国力の殆ん