どを消耗し終戦の日を迎へた。而して〝国破れて山河あり″の名句を胸に、荒れ果てた焼土の中から明日への建設の第一歩を踏みしめたのである。
木材統制時代回顧録
当時地木社箕島支店長 堀良造
昭和19年戦斗は益々熾烈を極めると共に軍用材の供出は緊急を要した。当時の戦況は連合艦隊司令長官山本五十六がすでに南方洋上で戦死し同盟国イタリアが降伏、米軍がサイパン島に上陸し本土空襲が初まり兵力の不足からついに学徒出陣が決定、学生服に赤タスキの紅顔の若人達が次々と召集されて行った頃の事である。
当時私は地木社箕島支店長の職にあり軍用材の供出に従事していたが学徒が出陣するほど兵員の不足していた頃であったから一般人は言うまでもなく次から次へと召集や徴用に狩り出され山林労務に従事する者は殆んど皆無の状態となった。一方軍用材の供出は日増しに急をつげ軍部から督促指令が益々厳しく、地木社の担当部課長は連日連夜供出の作戦会議を開いたが一向に名案が出ず各支店長は本社に呼び出され緊急命令を受け素材生産担当者を督励したが何白かんじんの労務者が皆無のため生産は容易に進まず中には作業半ばにして投げ出す者もあった。
万策つき最後の手段として第4師団司令部へ素材生産要員として兵員の派遣を要請した。かくして戦争も末期に近ずいた昭和19年10月第4師団司令部より1個中隊の兵員が有田地域に配属され清水国民学校の沼谷分校を宿舎として私は厳しい軍律の中で約50日間兵隊とともに起居し素材の供出作業に従事したが兵隊も当初は馴れない仕事