れたように或は折重なったようにずっと奥まで続いておる。既に煙もない、臭いもない、白色の炎の上の完全焼燃体である。この鬼気迫る異様な情景には私は思わず息を呑んで立ちすくんだ。恐らく数多くの周辺の人達はこゝならば安全だとなだれ込んだものであろう。後で判ったのであるがこゝで宿直していた地木社の社員1人が犠牲となった。この辺りの井戸の底には殆んど例外なく死体が見られた。熱さに堪えかねて思わず飛び込んだものであろう。私は地木社の職員としては恐らく1番乗りであったと思うが、勿論何のなすべき術もない。すぐ帰途につき旧県庁跡に来た。此処はこの度の空襲犠牲の最も激しかったところで一面累々たる死体で惨鼻を極め幾多の悲話を生んだところである。窒息死、直撃死、半焦げ、黒焦げ、半裸、全裸、殆んど骨だけのものすらある。コンクリートの管の中で焼け死んでいるものもある。そして姿の残った顔はどれも、これも焼苦悶絶の形相である。約4千坪の空地に一時は1万数千人も犇めいたといわれるが結局748名の犠牲者が出たところである。
 私が着いた頃は、まだほんの数人が肉親を求めて探かしに来ていただけであったが、ふと見ていると1人の男が半焦げの死体の服のポケットから名刺入れを取り出し中を見てすぐポイと投げ捨てて去って行った。顔も服も焼けくすんで判別のつかぬ死体に名刺こそは唯一の死体確認の手掛りであるのに、何と心ない人かと思い、私は元へ返しておこうと名刺入を拾って名前を見ると何と、それは当時、和歌山1の資産家、湯川公二さんではないか、私はこの事を早速湯川さんの出入の大工の棟梁に知らせてやったが大変感謝された。又当