時小野町に住んでいた製材業の直川幸一郎さんがお母さんが行方不明になったといって探しに来ていたが、湯川さんの死体のすぐ近くに老婆の死体があったので直川さんに知らせてあげると、果たしてお母さんであった。余りに変り果てた母の姿に、死体にしがみついて大声で泣き叫ぶ直川さんの姿を見て私も泣いた。又近くで原木商の山田さんの焼死体も見た。これらのおびただしい死体は10日、11日と砂の丸や旧県庁跡で警察が試験的に焼いてみたが燃料もなく又夜は焼けぬなど迚も大量の処理は不可能でその中、腐爛して悪臭で近寄れなくなって来た。漸く3日目に沢山の兵隊も来て数回に大きな穴を掘って合同埋葬された。附近から持ち込んだものも含めて此処には1,000に近い死体が埋葬された筈である。尚全市の死者は恐らく2,000名を越えたであろう。
 又鼠島には海軍の木材大集積所があり、此処には3、400,000石にも及ぶ素材、製材がうづ高く、山積されていたが、その殆んどが灰燼に帰した。こゝでは大火災の巻き起す旋風がゴウッと無気味な音を立てゝ火勢をあおり無数の板類や角材や丸太が或は紙片のように、或は赤い箸棒のように火の粉と共に数十米も高く舞い上る光景は、さしもの当夜の大火中でも圧巻であり、寧ろ壮観でさえあった。そしてその火片が対岸の御殿地区の植平製材所や太田製材所に雨のように落下して、その辺一帯に延焼したのである。内港には2、30隻の機帆船がいたが殆んど被爆炎上し、その残骸は戦後も長く放棄されていた。
 当時戦災地区には地木社の接収工場が、大小約60数工場(4,300馬力)あった。その中、罹災当時稼動していたものが約20数工場あったが