休止工場も含めて、その殆んどが焼失し、壊滅的打撃を受けた。被災を免かれたのは僅かに網屋町の加納製材所、新橋地区の花米製材所、雄松地区の太田(栄)製材所、東河岸地区の高田製材所、竹原製材所と他に内川地区に製函工場が2、3残ったに過ぎなかった。又工場在庫の製品、素材の被害は約20,000石といわれた。内港から水軒川、内川、大門川などの水面にあった筏も焼夷弾を受けて、殆んど丸焼けになったもの或は使いものにならぬ程、焼け焦げたものが多かった。湊網屋町の一角で7、8戸がポツンと奇跡的に焼け残ったが、その中には木爪達之助商店の煉瓦倉庫と石井堅蔵商店の店舗住宅、加納製材所の工場があったが何れも罹災者に開放され多数の所帯が長く同居生活をした。
 又中の島地区の一角が焼け残り、元の和歌山駅前の亀嘉商店が罹災を免れていたので地木社をとりあえず其処に移して仮事務所に当てた。又和歌山支店は罹災直後は焼け残った工場を仮事務所にしたが間もなく海南へ移した。
 余録 その(一)
 当夜の投下弾は6ポンド、100ポンド油脂弾とエレクトロン1号型、全2号型である。投弾の密度を知る上の参考として旧市役所庁舎屋上に30余個落下した。
 高射砲隊は鼠島と松江に各1ヶ中隊、砲2門づつあったが殆んど無力であった。
 その(二)
 当時の知事は小林さんで市長は田口さん。昭和21年度の市の予算は経常部で歳入2,300,000、歳出2,250,000。又その年に私が買った建坪6、25坪の市営応急簡易住宅は1戸2,000円であった。