業者の不満が高まるに至った。
然しながら、当時戦災復興用材が非常に急を用していた時であったから、政府は生産確保の上から産地の製材業者に積極的に増産を奨励していたので、製材業者はさほどの制約をうける事なく経営が比較的容易で木材は製品でさえあればどんな品物でも注文が殺到して製材が間に合わないという有様であった。
又此の間公定価格も市場価格に追随して幾度びか改正せられ、値上りした為に業者がまったく笑いが止まらない状態であった。特に素材の如きは絶対量の不足から山元から工場に到着する僅ずかの間に5割も6割も値上りを見た。此の頃素材の県外移出が未だ禁止されていた為に、本市に入荷する素材は紀の川流域や野上谷、有田、日高方面が主であった。
この様な好況に刺激せられて、従来木材業にまったく経験のない木材業者が急増す。特に製材工場の急増は目ざましく本市に於てはまたたく間に戦前を上廻る7、80工場に達し、各工場とも値上りブームに乗って、それぞれ業績を上げ、なかには巨利を得た小成金も現われるに至った。"日に百時代"と言って1日に百円、今の金にして1日に数万円儲かったのも此の頃である。
一方此の頃大阪市を初め全国の主要消費地には木材市場が相次いで再開され其の傘下に市売問屋が雨後の筍の如く現れ、これら市売問屋の集荷競争から前途金がばらまかれたために手持資金の乏しい業者は前途金によって円鋸1台から2台にあるいは帯鋸を設置するものなどが増加し生産が益々増加した。
ところが其の反面、当時木材需給調整規則や、