その後昭和28年5月15日ソ連代表部より、進展実業、大倉商事、東邦物産の3社に対し、石炭輸出の申入れがあり、これに対し進展と大倉の2社が政府に対し、石炭輸入許可申請とソ連造船技師の入国許可の要請をするに至った。
このバーター契約の内容は石炭輸入に対する見返り輸出は、ソ連船舶の修理という技術輸出であった点から両社の申請については日本政府も比較的寛容であって、輸入の許可並びにソ連技師の入国を許可した。これが戦後の日ソ貿易再開の第1歩である。
続いて昭和28年10月ソ連代表部から木材について日本と商談する用意がある……との意向が表明され、ソ連代表部に十数社が連絡に努め、パルプ、木材両業界もまたソ連材輸入促進について商社に協議を申し入れ関係者の動きが活発を見るに至った。
ソ連材輸入実現の欲求は、パルプ業界、木材業界の宿願であったが、特にパルプ業界は戦前その資源の豊庫であった南樺太を失い一方急増するパルプ需要に応ずるため、その資材をソ連材に求めんとする動きが特に活発であった。
当時政治的背景を懸念して具体的運動に踏みきれなかった木材業界に日ソ木材貿易の再開の促進を期する為めには、先ず日本側の受入れ体制の確立が先決であるとの見解から、昭和28年5月清水木材業界では<静岡県北洋材輸入促進会>を結成し、続いて横浜木材業界を中心に<神奈川木材貿易促進会議>が成立、両者は同年10月8日の日ソ貿易の協議に積極的に参加、此の他北陸方面にても富山、石川、新潟等がそれぞれ同調し、国内針葉樹材原木の不足と相俟って全国港湾都市製材