南港貯木場と製材工場団地の造成
戦後木材統制法が撤廃されるにおよび、昭和25、6年頃より県外材の移入を見るに至り、四国、中国、九州材が当地に入荷、多い年には月間百数十万石の大量に達した。此の頃より再び貯木場の必要性が叫ばれるに至った。当時貯木場用地として先ず第1候補地にクローズアップした場所は中西義一氏の発案による水軒川東側(現在山本進重郎商店工場裏側)のシッ地帯約30,000坪であった。其後いくたびとなく変更されたが、当時明治から大正時代に造られた貯木場、上市堀、鼠島堀は埋め立てられ、一方和歌川沿岸の和歌山木材倉庫堀や、三井堀は完全に麻痺して用を足さなく、又和歌山港内背割堤も、和歌山港が重要港湾に指定されて木材の船舶積卸し、けい留運行に、その都度海上保安署の許可を受けなければならぬ港則法の適用により制限を受けなければならない有様であった。
其の後昭和29年北海道の風倒木の大量移入を見るとともに、ソ連材、南洋材、米材の輸入を見るに至りその輸入量は年々増加、和歌山港外に大型船舶が呑吐すること年間実に百数十隻、輸入量も当初わずか100,000石内外が百数十万石に急増するに至った。これらの輸入材は殆んど背割堤にけい留されていたため、台風毎に流出の危険にさらされて、貯木場の必要性が益々強く痛感され早期建設の気運が高まるに至った。此の頃貯木場の適地として、白羽の矢を立てた場所は、水軒浜の1部荒浜であった。ところが同所は文字通り荒浜のため民間計画による単独事業では資金面等の関係と漠大な投資を必要とする割合いに付加価値的要