素が少ないなどの理由から同地の計画は画餅に終った。当時外材輸入は本市は勿論のこと、東京、大阪、名古屋、清水をはじめ全国的に激増の一途にあった。
 時たまたま、昭和34年9月27日夜半、愛知県下を襲った伊勢湾台風(台風15号)は全国で最も優秀を誇った名古屋8号貯木場護岸を壊滅し、貯木場内のラワンの大径木が名古屋市街地に氾濫殺到し、人畜におよぼした被害は実に甚大にして、港湾貯木場の整備促進が周辺住民の人命保安上、焦眉の急を要すとの世論が澎湃として高まった。
 此の頃全国の木材輸入港は、いずれも貯材が過剰で台風が発生すれば危険寸前の様な状態であった。
 斯様な事情から同年11月16日「全国港湾貯木場施設促進協議会」が急據結成、港湾整備並び貯木場の設置促進を国や関係当局に陳情、請願する運びとなり此の運動は全国的に盛り上るとともに国や関係当局も漸くこの問題に関心を高めるに至った。
<和歌山港湾貯木場設置促進協議会の結成>
 当時本県ではすでに北部臨海工業地帯の造成と港湾整備計画に着手していた。県の当初の北部臨海工業地帯の計画は、和歌山下津港の整備を目的とし、下津港湾地域の臨海地帯のうち、北部は北港の造成、南港の造成と埋立、海南港の隣接地区埋立、下津港の整備と初島等によるもので、下津港の整備を主眼とする計画であったが業界では貯木場を確保するためには、この期を逸しては将来和歌山に貯木場の造成を見ることは不可能であるとの見解から、昭和34年11月、和歌山木材協同組合理事長、中谷長蔵、和歌山製材協同組合理事長、山本進重郎、和歌山北洋材荷受協同組合