196戸、全壊2,170戸、其の他半壊床上浸水など有田川流域の人家に其の被害を受けざるものなく一方田畑の流失、埋没、冠水など実に2,600町歩に達した。一方林材の被害特に甚大にして、崩壊林地は全山に及び林道も殆んど決壊流失、且木材の流失は実におびただしい量に及び、有田川の下流、田殿、宮原、保田、箕島などの被災地では、一時川巾いっぱいに流材がぎっしり詰り水が見えない有様であった。
又製材工場で被災した工場は全工場の38工場、このうちその大半は工場と共に機械機具まで流失し、再起不能に落ちいった工場も少なくはなかった。以上は有田川災害の極く一端であるが、その惨禍は今も吾人の記憶に新たなところである。
伊勢湾台風
(昭和34年9月27日)
昭和34年9月27日伊勢湾を中心に台風が襲来、最高風速53メートル中心から東400キロメートル西300キロメートルの超大型、此の台風によって死者、行方不明4,700名、全壊家屋30,000戸、流木1,040,000石にして当時業界の羨望の的であった名古屋市8号貯木場および加福名港3貯木場が決壊同貯木場の木材が市部に流入し死者のうち1,300余名は流木によるものにして世論の的となったことは記憶に新たなところである。此の伊勢湾台風によって国に於ては港湾の整備を促進するところとなり、更に外材輸入の増加とともに港湾整備促進5ヶ年計画の樹立を見るに至った。本市の貯木場建設が愈々具体化するに至ったのも此の頃からであるが幸い本市の木材関係の被害は軽微であった。