うなものを、大阪や神戸へ出荷した。これを当時化物(バケモノ)製品と呼んでいたが、その後農林省の会議で問題となり、当局からきつい警告があったことなどが末だに記憶に残っている。
山本進重郎氏…木材統制時代で1番困った問題は地木社設立後に於ける製材工場の残存廃であった。
当時和歌山市から紀の川流域には500有余の工場があり、馬力数は凡そ7,000馬力あった。此の工場の残す工場と廃止する工場の問題である。其の時の国の方針としては7,000馬力のうち大体4,000馬力位いに減らす事と、最短距離を選べとの指示があり、私はこの担当者であったので、これには1番困った。最短距離と言う事は当時和歌山市の工場は有田方面や紀の川流域から原木を入れていたが、有田方面の原木をわざわざ和歌山まで運び製材するよりも、原木の入手に容易な有田や橋本その他高野口方面に製材工場を移せと言う様な意味であった。此の他種々なむつかしい問題があり、残廃工場や工場の査定をめぐって、業者間にも種々不平や不満があったが、結局紀の川流域に於ける500有余の工場のうち約400工場を廃止し、120工場位いを残し、馬力数約7,000馬力を半分の3,500馬力位いに圧縮した。
堀 良造氏…終戦後GHQより地木社の財産全部報告せよとの命令があった。当時残存せる素材石数は約550,000石あり、このうち300,000石を住宅営団に引渡し、残り250,000石を日木社へ引渡した。当時私は住宅営団の業務を仰せつかり、住宅営団に引渡す300,000石を県下流域から集荷し、戦後の復興住宅資材として営団に引渡したが、終戦直後のことで食糧事情や労務者の不足から思う様に集荷ができず非常に困った。