の当時は会議所が力を入れていたが其後組合の事業として、どうしてもやらねばいかんという事で組合が主体となり貯木場設置促進協議会を結成して運動を初めた。
当初の候補地は和歌川尻であったが、その後県の計画で現在の場所となった。
山口 平内氏…貯木場は原木の倉庫で、和歌山は外から材木を運んでくるので貯木場は絶対必要である。和歌山の1番最初の貯木場は現在、石井商店の貯木場である。あの貯木場の碑文を見ると日露戦争の済んだ直後にできている。此の貯木場は吉野、川上、小川、黒滝の業者らが共同でつくったもので面積は約30,000坪である。次は西黒滝堀でこれが約、4,000、5,000坪ある。これはいずれも吉野材の貯木場として明治時代につくられたものであるが、北洋材が入る様になった大正時代に三井堀と言って小雑賀に約30,000坪の貯木場と又、和田川の南側に和歌山木材倉㈱の約15,000坪の貯木場があった。尚この他に土入川口に6,000坪の県営貯木場と、鼠島に、和歌山木材㈱所有の約3,000坪と北村林業の製材工場の中に約1,000坪ほどのものがあった。この貯木場の全面積を合せて見てもざっと100,000坪足らずである。
当時の木材の取り扱い高は大体1,400,000から1,500,000石位いで貯木場にはとても収容しきれないので、紀の川や背割堤、内川を自然的な貯木場として使用し出した。然も当時はこれらの場所は無料で、いくらでも使うことが出来た。
其後外材の輸入の始まった昭和32-3年頃から貯木場設置の必要を痛感する様になり、最初の候補地は荒浜と水軒川筋、並びに和歌川尻に築造しようとの計画があった。
此の間明治から大正時代に造った小雑賀や、その