他の貯木場は殆んど埋め立ててしまい一方外材の輸入は年々増加した。ここに於て愈々貯木場の必要性を痛感するに至った。時たまたま昭和34年に伊勢湾台風があり名古屋に於ては凡そ1,000,000石の木材が散乱し死傷者すら出るという大被害が発生し、国は木材にたいする貯木場を真剣に考え出し、中央に全国港湾貯木場整備促進協議会を設置した。其の年の11月に和歌山にも和歌山貯木場設置促進協議会を結成して愈々本格的な運動にのり出した。時たまたま県に於ては北部臨海工業地帯の造成という問題で有田川から北港に至るまでの間、即ち、初島から下津、海南、和歌山を目標の造成計画が起案されつつあった。
そこで業界では此の機に乗じてということで、運輸省あたりに働きかけた。
その時の業界の計画は今の貯木場のある場所のところに約50,000~60,000坪と水軒川を100メートル位い広げるという計画であったが、その後県や三建の加川氏などの間に種々意見の相異があり結局現在のところに建設することに決定し完成を見るにいたった。
(四) 製材工場の近代化について
中枌 節三氏…私が製材を初めたのは木協が発足した昭和25年の3月でした。その当時南隣りに和歌山製材株式会社、北隣りには和歌山木材があり、殆んどの工場は円鋸であった。原木は紀の川筋や有田材が主であった。此の頃の水軒川はきれいで魚の泳いでいるのも見えた位いであった。
当時オガクズが前金で私の15馬力の工場で200,000円位いで売れオガクズ代で原木400石位い買うことができた。
又一方終戦直後のことで製品の売れ行きも良く円鋸で中板を引いても結構採算がとれ、相当利益が